NYで流行ってるらしい「Normcore」(究極の普通)とはなんぞ

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先日翻訳仕事の中で、Normcoreって言葉を知りました。Normは標準、coreは「ハードコア」とかの「コア」で、サラっと言うと「究極の普通」という感じでしょうか。私が読んだ文章では、「きわめて普通っぽい服装」くらいの意味で使われてました。

2月終わり頃から話題になっているみたいです。この言葉を最初にメジャーデビューさせたのは、2月26日付ニューヨーク・マガジンの「The Cut」に書かれたフィオナ・ダンカンさんの記事です。

その記事によると「Normcore」とは、「アートキッズ」や「ダウンタウンの女子たち」が「中年の、中流アメリカ人観光客」みたいな服装、つまり「ショッピングモールで買ったような服」「デリのコーヒーの最後の一滴みたいにぬるい服」を着るってことです。たとえばストーンウォッシュのジーンズやフリース、ラクなスニーカー、アディダスのトラックパンツやナイキのスリッパ型サンダル、ニューバランスのスニーカー、TevaとかビルケンシュトックのサンダルPatagoniaのウィンドブレーカー、ユニクロのカーキパンツ、Crocs、土産物の野球帽、などなどなどといったアイテムが例として挙げられてます。

イメージされる人はアップル創業者のスティーブ・ジョブズとか、

 

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となりのサインフェルド』のジェリー・サインフェルドとか(この写真一番右がサインフェルドだけど、大体みんな非常に普通な…)です。

 

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Normcoreという言葉、元々はK-HOLEというトレンド予測集団が提唱したものです。彼らが言うNormcoreとは、ある種の服装というよりは姿勢のことを指しているみたいです。つまり、クールであるために従来のように「difference(違い)」や「authenticity(本物らしさ)」を追求するのではなく、あえて「sameness(同一性)」を選ぶという態度です。

彼らの考えを説明した長い資料があるんですが、そこからポイントらしきところを(強調は私)。

 

ルールが「Think Different」であれば、「普通」なヤツと思われることが一番恐ろしい。(それは君の退屈な郊外育ちのルーツに引き戻されることであり、カボチャの中に連れ戻されることであり、君は特別じゃないって晒されることだ。)よってMass Indie(訳注:K-Holeが思う今どきのおしゃれな若者)の超エリートにとっては普通を選ぶことこそ逆説的に妥当ということになる。独自性なんかどうでもいいんだと示すことによって、彼らのステータスを確実にできるからだ。一番Differentなことは、Differentになるのを完全に拒否することなのだ。


つまりあまりにもみんなが「人との違い」を求めているから、あえて「同じ」方向に行くのがかっこいいんだ、みたいな感じですね。

ただ、こうして「人と同じ」を選んだ結果、たとえば白シャツにパンツというスタイルではなくて、Tシャツに短パンみたいなゆる楽スタイルになっていったのがひとつのポイントじゃないかと私は思います。

というのは、上のニューヨークマガジンの記事を読んで、最近クリップしていた別の記事を思い出したからです。2月16日付けのニューヨークタイムズ・スタイルマガジンの「Slave No More(もう奴隷じゃない)」と題された記事、書いたのはファッションジャーナリストのCathy Horynさんです。ちょっと長いんですが訳して引用します(強調は私)。

 

私はファッションショーに行くのが好きだし、仕立て屋やデザイナーたちの努力に感服しています。でも私が見ているショーの多くに関して、私が観客として適切だとは思いません。でも、そこに適切な女性がどれだけいるんでしょうか? ハイファッションを着ようという意志(時間とお金はともかく)を、今誰が持っているんでしょうか? この10年ほどで、ハイファッションとは何か極端なもの、または小売の専門用語でいえば「スペシャル」なものと認識されているんです。思うに、もうほとんどの人はランウェイのショーの目的は欲望を作り出すためのエンターテインメントであることを知っています。彼らはハイファッション企業の主な興味が美よりも利益にあることを理解しています。製品を売って新たな市場をつかまえる、それはコカ・コーラとかアップルと同じことです。(中略)

最近私は、周囲の女性たちのある変化に気づきました。彼女たちはみんな仕事を持ちつつ、面倒な家族のルーティーンをこなしつつも、ファッションに一家言持った人たちです。でも今はみんな、スリムなパンツにプルオーバー、フラットシューズというスタイルをボーイッシュな制服のように着ているんです。またはレザージャケットの中に素っ気ないレイヤーとか。彼女たちはメークもほとんどしないので肌はフレッシュに見えます(厚いメークは老けて見えるのをみんな知っています)。パリでのショーの最終ラウンドでは、フランス人の友人たちでさえ素敵なピンヒールをやめてローヒールを履くようになっていることに気づきました。何かが起こっているはずです。だって女性というものは、気まぐれでは動かないからです。(中略)

当時(90年代)から何が変わったんでしょうか? アートにインスパイアされたファッション、たとえばマルタン・マルジェラやミウッチャ・プラダ、ラフ・シモンズについて20年間熱心に書いてきた私から見ると、私たちはこのアプローチにうんざりしまったんです。女性の役割が80年代、90年代と進化していった頃は、服に意味を付加することは簡単だったし、必要だったかもしれません。服はパワフルだったり、大胆だったり、etc。でもはっきり言って今、服の周りの言葉の多くには無理やり感があります。1月のミラノのメンズのショーでプラダが彼女の素直なテーラリングについて話したときは感動しました。「私はリアルなものにしたかったんです。そして今、そのことを気に入っています。」

多くの女性も同じ思いでしょうが、こんな考え方は目新しいものでもありません。快適さへの欲望は根源的なもので、それが今、女性たちの姿勢や市場を形成しています。たとえばVinceが上場したりといった、いわゆるライフスタイルブランドの成長ぶりからもそのことがわかります。オーディエンスのほとんどは、シンプルなものを求めるベビーブーマー(訳注:第二次世界大戦終戦後に生まれた世代、日本でいえば団塊)ではないんです。にもかかわらずハイファッションにおいては、この春のテーパード・トラックパンツとトップスのようなスタイリッシュなカジュアルを体現しているステラ・マッカートニーのような例外を除いて、この市場が無視されています。

 
この記事ではNormcoreとは言っていませんし、多分記事執筆時点ではNormcoreという言葉が知られてないと思いますが、既存のファッショナブルさに対する懐疑、快適さ重視のスタイルの肯定という点で共通しています。そんなわけで今のニューヨークのおしゃれな人の気分は、このへんにあるんだと思います。

というか今のニューヨークにかぎらずアメリカ全般に、多くの人は何だか楽ちんで似たような格好をしています。今の自分の周りでいうと、まだ寒いんで、アウトドアブランドのダウンとかダウン的なワサっとしたブルゾンに、ジーンズとかあったかいレギンス。靴は男性ならスニーカー、女性ならショート丈のムートンブーツ。夏ならTシャツかタンクトップ、短パン、ビーチサンダル。それを今、おしゃれな人たちがあえて選んでやっているのがNormcoreってことかもしれません。

というか、たとえばこんなスタイルもNormcoreな例とされてるんですが、こういうモードっぽいもの+スポーツブランドのベーシックアイテムみたいな「外し」は前からありますね。


だから「Normcoreが流行ってるらしい」といっても、アイテム的にとかスタイリング的に何か目新しいものが出てくるわけじゃないのかもしれません。というかそういう「新しさ」の逆に行こうとしてるのがNormcoreなんですよね、多分。

ただ、プレーンでラクな服が大好きな私としては、この流れでその手の服の選択肢が増えるといいなと思ってます。「何の変哲もないスウェット」とかを探しても、探し始めるとなかなか見つからないことが多いので。あとできれば単にラクってだけじゃなくて、肌触りとか含めて着心地全般を意識してくれるといいなー。

それからもうひとつ、このNormcore的ながんばらないファッションの背景には、「ファッションって意味あるの?」っていう問いかけもある気がします。それって正解のある質問じゃないし、答えられても何かが変わるわけじゃないけど、だからこそいろんなデザイナーとかファッションに関わる人がどう思ってるのか聞いてみたいです。